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福岡高等裁判所 平成6年(う)146号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役一年二月に処する。

この裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人椛島敏雅作成の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。所論は、要するに、被告人を懲役一年二月の実刑に処した原判決の量刑は重すぎて不当であり、被告人に対しては刑の執行を猶予するのが相当である、というのであるが、所論に対する判断に先立ち、原判決及び原審記録を職権で調査するに、原判決には、次に述べるとおり、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があり、破棄を免れない。

すなわち、検察官が原審において主張した公訴事実(原審第二回公判期日における訴因変更後のもの、以下「本件訴因」という。)は、「被告人は、平成五年六月二五日午後六時一〇分ころ、業務として普通乗用自動車(以下「本件車両」ともいう。)を運転し、福岡県糟屋郡志免町桜丘一丁目一五番一号先の信号機により交通整理の行われている交差点(以下「本件交差点」という。)を南里方面から上月隈方面に向かい直進するに当たり、同交差点入口の停止線手前約157.3メートルの地点(以下「①地点」という。)を法定最高速度毎時六〇キロメートルを超えた時速約八〇キロメートルで進行中、対面信号機の表示が青色から黄色に変わるのを認め、同交差点の信号機が全て赤色を表示している間に同交差点を直進しようと考え、時速約九〇ないし一〇〇キロメートルに加速して進行中、自車前方約九四メートルの地点にI(当四二年)運転の普通乗用自動車(以下「I運転車両」という。)が対向右折しようとしているのを認め、既に自車の対面信号機の表示が赤色になっており、右I運転車両がその対面信号機の右折用青矢印にしたがって対向右折していることを予知していたのであるから、同車との衝突を回避するため、直ちに急制動の措置を講じて同交差点手前又は入り口付近で停止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、同車より先に同交差点を通過できるものと軽信し、漫然前記高速度のまま進行した過失により、同車が右折を継続しているのを自車前方約三五メートルの地点に認め、左急転把及び急制動の措置を講ずるも及ばず、自車前部を右I運転車両左側面部に衝突させ、よって、右Iに加療約二週間を要する左大腿・下腿部挫創、左側胸部打撲傷を、同車助手席同乗車K(当時一一年)に脳挫傷・急性硬膜下血腫等をそれぞれ負わせ、同月二七日午後一〇時二一分ころ、福岡市博多区千代二丁目一三番一九号医療法人社団至誠会木村外科病院において、同女を右傷害により死亡させた」というものであり、これによれば、本件訴因における被告人の過失の内容は、被告人が、本件車両を時速約九〇ないし一〇〇キロメートルの速度で運転して進行中、進路前方約九四メートルの地点を対向右折しようとしていたI運転車両を発見した時点(以下、この時の本件車両の進行地点を「②地点」という。)において、同車との衝突を回避するため、直ちに急制動の措置を講じて本件交差点手前又はその入り口付近で停止すべき業務上の注意義務があったのにこれを怠り漫然右速度のまま進行した、というものであると理解される。ところが、原判決が「罪となるべき事実」として認定した事実(以下「原判示事実」という。)における被告人の過失の内容は、被告人が、本件「交差点を南里方面から上月隈方面に向かい時速約八〇キロメートルで交差点の手前約一五七メートルの地点を進行中、対面信号機が黄色に変わるのを認めたのであるから、自動車運転者としては、直ちに急制動の措置を講じるべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、そのまま運転を継続した過失により、信号機に従い、右折中のI運転の普通乗用自動車左側面部に自車を衝突させ」た、というものであって、本件車両が①地点を進行していた時点において、直ちに急制動を講じるべき業務上の注意義務に違反してそのまま進行した、というものである。このように、本件訴因及び原判示事実は、いずれも被告人には直ちに急制動の措置を講じるべき業務上の注意義務に違反した過失があるとしているものの、本件訴因は、②地点を進行中の被告人に右注意義務違反の過失があったとしているのに対し、原判示事実は、①地点を進行中の被告人に右注意義務違反の過失があったとしており、両者の間では被告人の過失をとらえる時点が異なっている。しかも、関係証拠によれば、①地点と②地点は約九〇メートル離れているだけでなく、被告人は①地点から②地点に進行するまでの間に加速しているため、両地点を進行中の本件車両の速度は異なっていたこと、また、本件車両が進行していた道路は右にカーブしている上、登り勾配になっているため、被告人は②地点付近に至って初めてI運転車両を確認することができたことが認められる。そうすると、原判決が原判示事実において認めた被告人の過失の内容は、本件訴因におけるそれとは態様を異にする別個のものであるというべきであるから、そのような本件訴因と異なる態様の過失を認定するには、被告人に防御の機会を与えるために訴因変更の手続を経ることを要すると解される。したがって、そのよう訴因変更の手続を経ないまま原判示事実を認めた原判決には訴訟手続の法令違反があり、それが判決に影響を及ぼすことは明らかであって、原判決は破棄を免れない。

(なお、原判示事実によれば、被告人には、本件車両を運転して時速約八〇キロメートルの速度で①地点を進行中、直ちに急制動の措置を講じるべき業務上の注意義務があったということになるところ、検察官作成の捜査報告書によれば、被告人が①地点において直ちに急制動の措置を講じた場合、本件車両が停止するまでに進行する距離は、計算上、約62.7メートルとなる[反応時間を0.8秒、路面の摩擦係数を0.55とする。]から、本件車両は、本件交差点の約94.6メートルも手前において停止することになる。しかし、被告人に対し、このような結果を生ずる業務上の注意義務を科すことができないことは明らかであって、原判決には、この点においても、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令解釈、適用の誤りがあるといわざるを得ない。)

よって、弁護人の控訴趣意に対する判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三七九条により、原判決を破棄し、同法四〇〇条但書を適用して、更に次のとおり判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は、平成五年六月二五日午後六時一〇分ころ、業務として普通乗用自動車を運転し、福岡県糟屋郡志免町桜丘一丁目一五番一号先の信号機により交通整理の行われている交差点を、南里方面から上月隈方面に向かい直進しようとして、同交差点入口の停止線手前約157.3メートルの地点を時速約八〇キロメートルで進行中、対面信号機の表示が青色から黄色に変わるのを認めたのであるから、速度を調節して同交差点手前の停止線において停止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、そのまま同交差点を通過しようとして時速約九〇ないし一〇〇キロメートルに加速して進行した過失により、折から、その対面信号が表示する右折用青矢印の信号に従って対向右折してきたI(当時四一歳)運転の普通乗用自動車の左側面部に自車前部を衝突させ、よって、同人に加療約二週間を要する左大腿・下腿部挫創、左側胸部打撲傷等の、同車助手席同乗者K(当時一一歳)に脳挫傷・急性硬膜下血腫等の各傷害を負わせ、同月二七日午後一〇時二一分ころ、福岡市博多区千代二丁目一三番一九号医療法人社団至誠会木村外科病院において、同女を右傷害により死亡させたものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(本位的訴因を認定しなかった理由)

本件訴因は、本件車両を運転して時速約九〇ないし一〇〇キロメートルの速度で②地点を進行中の被告人に、直ちに急制動の措置を講じるべき注意義務があったと主張するものであるところ、検察官作成の捜査報告書によれば、被告人が②地点において急制動の措置を講じた場合、本件車両が停止するまでに進行する距離は、計算上、約76.9ないし92.4メートルとなる(反応時間を0.8秒、路面の摩擦係数を0.55とする。)。しかるに、関係証拠によれば、本件車両が②地点を進行していた時のI運転車両との距離は約九四メートルしかなかっただけでなく、本件車両は、その後約84.7メートル進行した地点でI運転車両と衝突していることが認められるから、被告人が②地点において急制動の措置を講じたからといって、I運転車両との衝突を確実に回避できたとまではいえない。そうすると、被告人に対して、本件訴因が主張するような業務上の注意義務を科すことはできないから、本件訴因を認定することはできず、検察官が当審において追加した予備的訴因を認定するのが相当である。

(法令の適用)〈省略〉

(量刑の理由)

本件は、仕事を終えて帰宅途中の被告人が、本件交差点の対面信号機が青色から黄色の灯火信号に変わるのを認めながら、同交差点の前部の信号機が赤色の灯火信号を表示している間に同交差点を通過してしまおうと考え、時速約九〇ないし一〇〇キロメートルもの高速度に加速して進行しようとした無謀運転によって引き起こされたものであって、被告人の過失の程度は極めて大きく、対面信号機の右折用青矢印の灯火信号に従って対向右折しようとしていたIに全く落ち度はない。しかも、本件事故によって発生した結果は誠に重大であり、意識が戻らないまま事故から二日後に死亡したKは当時まだ小学生であって、同女の無念さはいうに及ばず、最愛の一人娘を失った遺族の悲しみも察するに余りある。また、本件事故により負傷したIの怪我の程度も決して軽いとはいえないことをも併せ考えると、被告人の刑事責任を軽視することはできない。

他方、被告人は、いまだ若年であり、今では本件犯行に及んだことを深く反省悔悟していること、本件事故直後からKの遺族に対する慰謝に努めてきただけでなく、原判決後、Kの遺族及びIとの間で示談が成立し、被告人自身の負担分は既に支払済みである上、残金も被告人が本件車両に付けていた保険によって確実に支払われるであろうこと、右事情からすれば、Kの遺族らの被害感情も以前よりは緩和していると推察できること、これまで被告人には前科前歴のみならず、交通違反歴もなく、真面目に社会生活を送ってきていたと認められることなど、被告人のために有利に酌むべき事情も多々認められる。

以上の各事実を総合考慮すると、被告人に対しては、今回に限り懲役刑の執行を猶予し、社会内において更正する機会を与えるのが相当であると考えられる。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官池田憲義 裁判官川口宰護 裁判官林秀文)

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